終戦間際の1945年8月6日8時15分、広島に原爆が投下された。爆心地付近は鉄やガラスも熔けるほどの高熱に焼かれ、爆心地から2kmの範囲で建物のほとんど全てが倒壊した。
爆心地から2.74kmに位置する善法寺は全壊は免れたものの、本堂と庫裏が甚大な被害を受けた。天井は落ち、瓦やガラスが飛散した。爆心地のある東南方向から爆風を受けた本堂と庫裏は、戦後数回の修繕が行われた今でも西北方向に傾いたままになっている。
当時善法寺住職であった第十五世前田道雄は中国上海で布教活動に従事しており不在だった。道雄の妻美恵は原爆投下の前年に病気で亡くなっていた。道雄の父至道は門徒宅でお参りの後、お茶をいただいている最中であった。寺にいたのは、道雄の母ツナ(当時62歳)と道雄の長男で第十六世住職となる至正(しせい)(当時5歳)と次男至成(当時2歳)の3人。至道はすすをかぶって真っ黒になったが無事に帰ってきた。ツナは頭部にガラスが突き刺さり、赤ん坊だった至成は庫裏の奥の部屋から境内に吹き飛ばされた。同じく爆風で吹き飛ばされて意識を失った至正は気がつくと片まぶたが青くはれあがっており、泣きながら祖母を探したのを今でも覚えている。
まもなく、寺は救護所兼遺体収容所の役割を担い、死者は旭橋西詰めの土手で火葬された。寺町にあって全焼した広島別院は1945年12月から翌年5月まで善法寺に教務所を置き寺務を行っていた。
戦後の善法寺は、門徒の力に支えられて何度かの修復を繰り返しながら今も戦前の姿をとどめている。本堂は広島市の被爆建物に指定された。
善法寺境内に立つ銀杏と桜の古木は、原爆を経た今もたたずんでいる。